言論の「自由」という不自由

こんにちは。

まだまだ寒い日が続いています。
お元気が何よりです。

先日、某テレビ番組でヘイトスピーチなる情景を観ました。
女性のスピーカーもいました。
強そうな男性も出てきました。
とても理性的とは思えない、言葉と憎悪の行動。
途中で気分が悪くなってしまいました。
わが心をどうやって落ち着かせたらよいものかと・・・。

若い頃の「安保闘争」
学生運動の盛んな時、野次と怒号のなか
機動隊との激突に身を投じた時期もありました。
あの「大儀と感情」はまったく違います。

これは、異質のもの。

少数派の弱い立場のあの人達を、あそこまで追い込む。
激情をこめた言葉で心をズタズタに切り刻む。
同じ番組の後半で、移民排斥運動などにより、
ヨーロッパの移民の人達が、苛められている姿も放映されていました。
「俺達の仕事を奪ったのは、移民のお前達だ」
と叫びながら移民者の経営する店舗を破壊していました。
これは外国のことなので、比較的無責任な目線で観ていましたが。

・・・(でも、これもおかしい)

悪辣な権力者の横暴を庶民が正しい言葉で糾弾するのはわかるのですが、
弱い立場の人達を優位な立場から苛めるのはいかがなものか。
「言論の自由」
「表現の自由」
彼らにとって自由の正しい解釈(定義)ってどうなっているのでしょうか。

この映像を見ることができたのは、
「表現の自由」があったからこそ・・・では、ないですか。
等と揶揄しないで、冷静に考えをまとめてみたいと思いました。

 本当の「自由」を考える 額装の㈱アート・コアマエダ(店主)